房楊枝(江戸時代の歯ブラシ)
 仏教を開いた釈迦は、健康のためインド医学を基にした仏教医学をはじめ、その方法のひとつとして歯みがきをすすめました。具体的な歯みがきの仕方というと、薬用になる木の小枝を噛んで、その樹液を吸い、噛みくだいた先端部分をブラシのようにして、歯や舌をみがくことでした。薬木としては、菩提樹の若い小枝を鉛筆くらいの長さに切って使いました。インドの菩提樹は、中国や日本のシナノキ科の菩提樹とは異なり、熱帯地方に自生するクワ科の薬用熱帯植物で、通称インド菩提樹と呼ばれています。常緑広葉樹で大きな木となり、仏典によると医薬の原料になると記されています。この薬木は仏典では「歯木」とあらわされますが、それは梵語(※1)の「歯に使う木」という意味の言葉でありました。
 仏教の東進とともに中国にも「歯みがき」が伝えられました。中国では歯木の原料となる木がなく、ヤナギ科の喬木(※2)である楊柳(※3)を代用として使ったことから楊枝と呼ばれるようになりました。唐の時代には楊枝による歯みがきも普及していました。指に塩をつけて歯をみがくことを中国では揩歯と言い、揩歯をする人も多く、敦煌の壁画にも指で歯をみがく人物が描かれているそうです。
 日本では楊枝は房楊枝と呼ばれ、江戸時代から庶民に広く使われるようになりました。9〜30cmくらいの適当な長さ、ふつうには12cmほどのものの一端をたたいて、一寸(約3cm)くらいの房状の毛束にしたものでした。テレビで放送された「木枯らし紋次郎」の楊枝のように、長いものは大楊枝とも言われていました。
 明治初期、西洋医学の流入とともに楊枝もさま変わりし、クジラのひげと馬の毛を使った「クジラ楊枝」なるものが発売されたこともありました。明治の中頃、「ライオン歯磨」より歯ブラシの名で発売されて、現在のような形状になって今日にいたっています。
 歯みがき剤の歴史は古く、紀元前1550年頃の古代エジプトの文献パピルスに、歯みがき粉の処方がのっています。練り歯みがきは、ビンロウ樹の実を細かい粉状にしたものに、緑粘土、蜜、燧石(火打ち石)、緑青(銅青)を混ぜたものが使われていました。みがき砂より固いもので、これでみがくとたちまち歯がすり減ったことでしょう。歯みがき粉は、乳香(※4)、緑青、緑粘土などから作られていました。インドのシュルタという医書(釈迦と同年代)には、蜜やある種の粉木で作った糊剤を歯木につけ、歯肉を傷つけないように歯をみがけば、不快な口臭や歯の汚れを落とすことができると書かれています。
 中国や日本では、歯みがき剤には塩を使っていました。エジプトの歯みがき剤が中国、朝鮮半島を経て日本に伝わったのは江戸時代のようで、わが国の文献に歯みがきという名称が見えるのは、寛永20年(1643年)に江戸の商人丁子屋喜左衛門が、大陸から渡来してきた韓国人の伝を受けて製造し、「丁子屋歯磨」あるいは「大明香薬砂」の商品名で売り出したのがはじまりとされています。江戸時代の歯みがき剤の多くは、房州産の砂に竜脳、丁子、白檀などで香りをつけたり、土地によっては白砂(※5)や米糠(※6)、蛤の殻などを焼いて用いていました。江戸では歯みがきブームが起き、歯みがき粉の販売合戦はすさまじく、楊枝や歯みがき粉を売る店先には評判の看板娘を置いて競い合ったと伝えられています。
「白い歯を見せれば売れる楊枝見世」。
※1[ボンゴ] サンスクリット語の異称。その起源が造物神ブラフマン(梵天)にあるというインドでの伝承に基づく、中国や日本での呼称。
※2[キョウボク] 丈の高い木。ふつう、高さが約二メートル以上になる木で、幹が太く、直立し、枝を張って他の植物を覆うものをいう。
※3[ヨウリュウ] やなぎ
※4[ニュウコウ] カンラン科の常緑高木。または、その樹脂。北アフリカの原産で樹脂は芳香があり、古代エジプト時代からの薫香料。
※5[シラスナ] 白い砂。はくさ。
※6[コメヌカ] 玄米を精白するときに出る外皮や胚(はい)の粉。黄白色で、脂肪・たんぱく質などを多量に含む。飼料・肥料・漬物などに用いる。ぬか。


出典
磯村 寿賀人
『おもしろい歯のはなし 60話』 大月書店