哺乳類の子どもは母乳でゆっくり育てられるため、歯が生えてくるのも遅く、一生を通じて一回しか生え替わらないので、一本の歯が長く存在することになりました。それは、強く噛む力を得るのに都合がよいことで、そのうえに、何でも食べることのできる食べるための道具(咀嚼器官)を持つことは動物の進化にとって必要欠かせざることでした。
 さて、いよいよ人類の出現です。人類は約500万年前にチンパンジーと分かれて、直立2足歩行によって独自の道を歩みはじめたと言われています。(2000年にアフリカのケニアで600万年前の猿人の化石が発見されたということですので、人類誕生の時期についてはまだかなり流動的なようです。)以後440万年前のアウストラロピテックス・ラミダス、370万年前のアウストラロピテックス・アファレンシスと進化の過程をたどります。人類が急速に進化をとげるのに、直立2足歩行は言うに及びませんが、大脳が大きくなったことも見のがせません。200万年前のアウストラロピテックスの脳容量は約500cc、50万年前のホモ・エレクタスは約1,000cc、現代人は約1,500ccです。このように劇的に脳が大きくなったのはなぜなのでしょうか。
 人類の偉大な最初の発見は火と道具の使用ですが、これによって食べるものを調理することができるようになりました。脳のおよそ60%は特殊な脂肪というか、脂質でできています。その脂質は人間の体内では作れませんので、食べ物の中に見い出さなければなりません。そのためには草食の動物を食べることが非常に有効であるのです。人間は火と道具(武器)を使って、脳や神経血管系の発達に不可欠な動物の肉を食べることを容易にしました。そのことが脳の発達の原因にもなったのです。
 しかし、食べ物がやわらかくなることにより、強い力で噛みしめる必要がなくなりました。当然、人間の噛む力(咀嚼力)は弱くなってきました。頭のてっぺんからびっしりおおっていた咀嚼筋の一つである側頭筋は、強い力で噛む必要がなくなったので、こめかみの少し上まで後退してしまいました。外からしめつけられていた頭の骨は圧力から解放されて、頭の骨が外に向かってふくらみ得る可能性が生まれたことになります。頭が大きくなれば脳の容積も大きくなるはずです。
 人間の脳が大きく進化したのは、足、手の働きが強調されていますが、あごも大切な機能を持っていたと言われています。2本の足で立ち上がり、つま先で大地を踏みしめて歩くことにより足の裏から、手が自由に使えることによりその指先から、大量の刺激が脳にもたらされ、さまざまな情報が伝達されました。あごからは、噛みしめて奥歯ですりつぶす咀嚼運動の刺激が脳に伝えられました。あごからの情報量の比率は足、手の4分の1に対して2分の1と高く、脳の発達に重要な役割を担っていました。とすると、進化と退化が同時進行していたということになります。
出典
磯村 寿賀人
『おもしろい歯のはなし 60話』 大月書店