洋の東西を問わず、歯科医は一般の医師の中で歯や口の病気に関心があったり、手先の器用な人々が診療に取り組んでいたようです。もともと西洋医術はキリスト教とともに発展したのですが、その中心はイスラム教の勃興とともにアラビアへと移っていくことになります。やがて、ルネサンスによって科学的実証主義が芽生えると、ヨーロッパで中世医学が花開きます。ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチは深い医学的知識を持っていたことは有名です。ヨーロッパでは早い時期から医学とは独立して歯科が存在したようで、フランスで1700年頃には歯科医師開業試験制度が行われていました。世界最古の歯科医学校として、1839年の末にアメリカのボルチモア歯科医学専門学校が設立されています。日本では医師の中の口中医が口の中の治療を行っていましたが、民間ではそれとは別に江戸時代初期から、「入歯師」といって入歯を作る職業が現れていました。また、大道で芸を売る香具師と言われる人たちが、歯を抜いたりして見物客を集め、歯磨き粉や膏薬を売っていました。元禄12年(1699年)の『初音草噺大鑑(はつねぐさはなしのおおかがみ)』に、「京と江戸ゆきすぐなる通町の辻々をみれば、あるひは歯ぬき、耳の治療─」とあります。刀などでわざと傷を作り塗り薬を売っていた「ガマの油売り」などはよく知られています。
 歯科という名称はいつ頃から用いられたのかははっきりしませんが、歯科医の先駆者は小幡英之助(おばたえいのすけ)という人のようです。小幡は豊前中津の藩士の家の生まれで、明治2年に東京に出て医学を学び、さらに当時日本に来ていたアメリカ人の歯科医エリオットに師事して歯科医学をも学びました。明治の黎明期は欧米諸国の諸制度を取り入れるのに急で、医療制度もその例に漏れず、明治7年に医師の新規開業への新制度である「医制」が発布されましたが、なぜか歯科の項目はありませんでした。そこで、明治8年、小幡は自分は日本古来の口中科ではなく、西洋の歯科医術を身につけたのだから、「医師試験」ではなく「歯科試験」を受けたいと申し出て、日本初の歯科医術試験を受け、明治8年に歯科医術開業免許を得たのでした。小幡にすれば、自分は「歯抜き」でもなく、「入歯師」でもない、西洋流の歯科医術を学んだのだ、という自負があったのだろうと思われます。こうして、歯科は独自の道を歩み始め、明治16年の「医術開業試験規則」によって歯科の医師法規からの離脱が確定し、あらたに「歯科医籍」が設けられ、明治39年に政府から「歯科医師法」として許可されることになりました。日本最初の歯科医師養成機関は、明治21年に設立された「東京歯科専門学校」で、当初は2年の教育機関、しばらくは専門学校での教育でしたが、昭和22年の学制改革で新制大学が設立されて6年の修業年限となりました。
 医療制度の中での歯科の位置づけはさておくとして、社会政策としての医療は資本主義の発展とともに整備されてきたという経緯があります。明治期において軍国主義・帝国主義、言い換えれば富国強兵にどれだけ貢献したか、また昭和40年以降の高度成長経済の時期にはGNP(国民総生産)にどれだけ寄与したか、ということでその役割を評価されたきらいがあります。資本主義が爛熟し高度に発展した社会を実現しつつある現在、人間にとって医療はどうあるべきか、歯科の目標は何かと考えますと、「QOL(※)」の実現がひとつの到達点には違いないと思われます。

※Quality Of Life(生活の質)の略で「より良い生き方や健康生活ということを精神的な豊かさや満足度も含めて質的にとらえる」という考え方
出典
磯村 寿賀人
『おもしろい歯のはなし 60話』 大月書店