原初の生命は飢餓に遭遇し、生き延びるために体全体を動かして、エネルギーをとらえようとしました。そのため、体の一部が外方に向かって開口し、そこから栄養をとりこむようになります。それが口のはじまりです。
 今から約5億7000万年前にカンブリア期がはじまり、まだ脊椎を持たない生き物たちは、外方に向かってつき出された触手のようなものでエサをとりこんで、皮膚呼吸をしていました。口ができると海水が体の中に入ってきて、その中の栄養分を消化するための腸管ができてくることになりました。皮膚呼吸だったものが腸管呼吸へと進化したのです。この段階こそが私たち哺乳類の起源、脊椎動物の誕生と言えると思います。
 やがて、触手にかわって、体の周囲にたくさんの鰓孔(えらあな)が開くようになりました。効率よく大量の海水をエサとともに飲み込んで、腸管を通過させ、後方から排出するといったふうに、濾過捕食の様式が発達してゆきます。当初は丸いふくろ状のものだったのですが、海水が通過するうちに、細長くなり、口のある部分と尾の部分に分かれてゆきます。ついで、おたまじゃくしのような形となって、口のある方を先頭にして、そうすることがエサをとりこみやすいためですが、尾っぽを振って動きまわるようになります。こうして、積極的に捕食運動をするようになっていきました。
 消化に関係する臓器が作られ、消化に時間のかかる腸管や臓器は体の後方に位置するとともに、肛門ができあがり、消化器官の雛形の完成を見ることになります。また、口のまわりは水中を進むうちに刺激を受けて、口の周囲に神経繊維が発達します。その背部に嗅覚器ができますが、嗅覚は人間の脳神経の中でもっとも古いものと言われています。エラの運動につれて動いていた脈管が心臓になります。そして、鰓呼吸をしていた鰓孔が内部に向かって取り込まれ、その部分を鰓嚢(エラのふくろ)と言いますが、この部分に脳の原器(脳のもととなるもの)が形づくられます。脳の原器には、鼻・目・耳のもととなるものがすでに備わっています。鰓のまわりには腎臓、腸管の付近に生殖巣もできあがってきます。脊椎動物は急速に進化の道をたどり、海中から地上に上陸してはじめて、顔面頭部、頸部、胸部、腹部などに分化してゆくことになるのです。
 こうして、人間の進化のあゆみを見てきますと、生命体はまずはじめに口ありき、ということがよくわかります。顔のはじまりは口からだったのです。東京大学医学部口腔外科の西原克成氏は、『顔の科学』のなかで「太古の原始脊椎動物から原始哺乳類に至るまでは、脳の主要部は、咀嚼器官に従属して発達してきた。脳は、顔に従属していたのである」と書いておられます。つまりつきつめて言うならば、脳は口の機能に引きずられて発展したもの、口は人間の存在の端緒ということができると思うのです。
<参考>・西村克成『顔の科学』
出典
磯村 寿賀人
『おもしろい歯のはなし 60話』 大月書店