多くの動物は鼻よりも口が突き出ていますが、人間の口は後退しているように見えます。下あごを突き出せば口が前へ出るのですが、人間は直立したためとあごが後退したために、口が後退したのです。人間は頭の下に胴体がくっつき、4本足の動物は頭のすぐ後に胴体がくっついています。動物は鼻口部が前に突き出て、人間の口は引っ込んだことになります。あごを出すのは姿勢的にもだらしがなく、あごを引く姿勢こそが人間的であるというわけです。あごを引いた姿勢は、口を小さく見せます。人間は動物のように必死に食料を探し求める必要がなくなったためか、口も小さく上品になったということでしょうか。
 口にかわって人間の鼻は高くなりましたが、なぜそうなったのかと言いますと、鼻と頬の部分が同じくらいに平面だったのが、上あごから頬の部分が陥没して退化したからのようです。ヨーロッパ人の鼻が高いのは咀嚼器官の退化が著しかったことと、ヨーロッパ大陸の気候と湿度との関係で高い鼻を維持するのに好都合だったこと、冷たい空気を暖めて加湿器の役割をする鼻腔[びくう]の容積を減らさないために前方へ突き出たこと、などが考えられます。
 動物は口を開けると口裂[こうれつ](口の裂け目)も非常に大きく、顔の大部分を占めていて、頬と呼ばれる部分がないように見えます。しかし、犬などのように口の裂け目を見てみますと、その後ろの皮膚の部分がだぶついているように見えます。この部分が人間の頬にあたります。人間の口はどんどん小さくなって、その残された部分が頬になりました。頬の内側、つまり口の中の粘膜ですが、赤い色をしていて血管が発達しています。頬と口の中の粘膜との間に筋肉と脂肪体があります。子供たちや若い女性の頬がふっくらしているのはこの脂肪のおかげです。頬の表面の部分の浅いところにも血管が豊富です。頬がほんのり赤く染まって見えるのもそのためで、古来からこのふっくらとした紅い頬がどれだけ人々を魅了したかはかりしれません。
 唇は皮膚と口の中の粘膜の移行部と考えられますが、むしろ口の中の粘膜がめくれかえって、外方に露出したものとみることができそうです。唇が赤いのは色素が欠如しているためであり、赤い唇を持つのは人間だけなのです。口裂がせまく小さく、唇の筋肉が発達していて、感覚が敏感ということは、赤ちゃんが乳首をくわえて母乳を吸うためにはうってつけで、唇をすぼめて陰圧にできて、非常に好都合なことなのです。また、唇は音声言語を発するのにも最適です。口と唇は食べ物を摂取する器官というよりも、もはや言葉・おしゃべりをするための器官というほうが適切なようです。
 赤い唇は何のためにあるのか、イギリスの動物学者デスモンド・モリスは「唇は幼児期の哺乳に必要であると議論されているが、他の霊長類はめくれた唇を持っていなくても有効に哺乳する。また、唇はキスのための器官として進化したといわれるが、類人猿はめくれた唇を持たなくても、上手にキスできる」と述べ、愛情交換をいっそう効果的にするために赤唇縁[せきしえん]を発達させたと説いています。男性と較べて、大きく肉付きの良い女性の唇は、口紅を使って、さらにその形、色、きめが誇張されますが、これは4000〜5000年前の昔から行われていたことが知られています。
出典
磯村 寿賀人
『おもしろい歯のはなし 60話』 大月書店