噛むこと、咀嚼することは、頭がよくなる、記憶力がアップする、ボケを予防する、ということにつながると言われます。それでは具体的にどういうことなのかということについて、朝日大学の船越正也学長の有名な実験を紹介したいと思います。この実験は、同じ母親からの子ネズミの離乳期(生後3週間)を、硬い固形食を与えるグループと、同じ成分の粉末食のグループ(各10匹)にわけて育て、迷路による知能テストを行いました。12通りの迷路を入口から走らせ、出口にたどりつくまで袋小路に入ったエラー回数を数えて合計したところ、固形食群136.6、粉末食群216.3と、硬い食べものを食べた子ネズミは間違いが少なく、柔らかい食べものを食べた子ネズミは間違いが多かったのです。また、レバーを押すと電気ショックを避けられる実験装置でも、固形食ネズミの方がしだいに電気ショックを避けようとしてレバーを押す回避率が高くなり、学習効果がすぐれていることがわかったのです。さらに、子ネズミが年をとるにつれてどうなるかを調べた実験の結果が下のグラフですが、年をとるにしたがって学習成績(回避率)が低下することがわかりました。
 人間は1日1日と脳の細胞が減少の一途をたどりますので、脳の機能の低下を防ぐことはできません。それらを遅らせる方法はいくつか知られていて、よく噛むことによってボケを防ぐことができるのではないかと言われています。先ほどの子ネズミの実験で、年をとるにつれて、学習成績(回避率)は低下しましたが、粉末食群に比較して、固形食群のほうがその低下の程度は明らかにゆるやかで、よく噛むこと、咀嚼することは脳の老化を遅らせることがはっきりしたのです。 船越教授によりますと、食べものをよく噛みますと、歯を支えている根の部分の歯根膜などの刺激が脳へ送られて、脳細胞の活動が活発になり、脳細胞同士のシナプス結合が増えていくということです。咀嚼だけではなく、視覚、聴覚、手足の運動など他の情報、刺激も脳の発達を促すことが知られていて、よく噛むことが噛まないよりは脳によい影響を与えることは確かなことなのです。現在、記憶や学習に関係する化学物質として、コレチストニン、ボンベシン、ニューロペプチド、a-FGF(酸性線維芽細胞増殖因子)などが知られています。a-FGFは赤ちゃんの脳の発達、脳細胞の再生修復、記憶中枢の活動促進、条件回避学習の成績向上などの作用があることが報告されています。子ネズミの脳内に細かいカニューレを挿入して、脳の脊髄液を、食事前、食事中、食後3時間にわたって採取してa-FGFの濃度を調べたところ、この記憶促進物質は食事開始により330倍に増加、3時間後にもとのレベルにもどったということです。空腹では頭も働かないということでしょうか。
 私は市井の一介の開業医ですので、実験したこともありませんし、何のデータも持ち合わせていませんが、学校の歯科検診や日頃の診療での感触から、子どもたちにおいては、よく噛める子はむし歯が少なく、したがって噛む力、咬合力が強く、反対にあまり噛まない子はむし歯が多く、咬合力も弱い傾向があり、歯のよい子ほど活発で、歯のよいお年寄りほど、健康で、頭もしっかりしていてぼけていないというふうに、よい歯でよく噛むことの大切さを肌で感じているのです。
出典
磯村 寿賀人
『おもしろい歯のはなし 60話』 大月書店