人間はいつごろから、言葉を話せるようになったのでしょうか。言葉が話せるためには、声が出て、それを共鳴させられる機関が必要です。声は声帯で発声し、その振動が口の中に入り、舌の動きで言葉になり、共鳴されるのです。人間は、口から食道に通じる食べものの通る道と、鼻から気管に通じる空気の通る道は、のどの奥にあたる咽頭[いんとう]で交差しています。人間以外の哺乳類では、肺からの空気は鼻に抜けて、共鳴することができません。これでは、呼吸しながら、食べものを同時に食べられる利点はありますが、会話はできません。人間は、食べものを食べるときには、呼吸を一時止めなければなりませんが、そのことによって会話をする能力を得ることができたのです。しかし、生まれたての赤ちゃんは、動物と同じような喉の形状を残しています。赤ちゃんは、おかあさんのおっぱいを吸いながら、鼻でスースー息をすることができますが、口では息をすることができません。咽頭と呼ばれる交差点が未完成で、交通整理ができないからです。1歳をすぎて歩き出すころになると、喉頭[こうとう]と鼻腔[びくう]が離れ、咽頭が成長発育することによって、交通整理ができて言葉が話せるようになってきます。
 このように、言葉が話せるためには、咽頭部分の発達が欠かせませんが、人類がいつごろから咽頭の位置が低くなり、咽頭と口蓋垂[こうがいすい]が離れ、咽頭が発達するようになったかと言いますと、猿人段階ではまだ無理で、原人段階に移行して石器を使いだす約100万年前ころからではないかと想像されています。石器の使用は、人と人のコミュニケーションの存在がうかがえるからです。火の発見と道具の使用によって、咀嚼器官の退化が急速に進み、口の中が広くなり、舌が自由に動かせるようになっていきました。イスラエルのケバラ洞窟からネアンデルタール人の舌骨[ぜっこつ]が発見されていて、この骨は舌の動きに関与する、会話するためにはなくてはならない骨で、彼らに言語の存在したことを物語っています。
 人間は立ち上がって二足歩行をすることによって、首ができあがり、言語・発声をつかさどる喉頭と咽頭を発達させました。口や歯は、咀嚼機能から言語・発声機能に少しずつ席をゆずっていくことになりました。現代人は、口の裂け目の長さ(口裂[こうれつ])がしだいに短くなっていますが、これは食べることよりも、しゃべることのほうが大切になってきている証拠なのです。
 音声の発声に関与する音声器官は、@気流機構(肺)、A発声機構(喉頭)、B口・鼻腔作用(口腔および鼻腔)、C調音作用(唇および口)などがありますが、歯との関係はどうなのでしょうか。さまざまな調音の中で、歯音[しおん]は、舌尖[ぜっせん]と上の前歯を使う音で、タやダ、サを、歯茎音[しけいおん]は舌尖を使って歯ぐきが閉鎖される時に発声します。とくに、前歯が抜けていたりすると、サシスセソが発音しにくくなります。歯と歯茎も言葉をしゃべるのに欠かせない部所なのです。義歯だとしゃべりにくいからといって、義歯を入れずに抜けたままの人もかなりいます。歯は言葉をしゃべることに大切な役割をもっているのです。
出典
磯村 寿賀人
『おもしろい歯のはなし 60話』 大月書店