歯科の二大疾患はむし歯と歯槽のうろう(歯周病)です。昔の人たちはそれらが引き起こす痛みと歯がなくなる不自由さに苦しめられたようです。むし歯は、歯がくさってポロポロと朽ちていくのが目に見えるので、口の中に見えない虫がいて、それが歯にとりついてくさらせるのだと考えられていました。しかし、歯槽のうろうでは健全な歯がグラグラと動きだして、ついには抜け落ちてしまうそのふしぎさをどう解釈したらよいのかと、とまどいを見せています。歯の根のまわりに悪い液状のものがたまって、それが歯の根を押し上げて抜けてしまうのだ、と考えてもいたようです。
 中国の『病原候論[びょうげんこうろん]』という書物には、「歯漏[しろう]」として、「手の陽明[ようみょう]の支脈は歯に入る。風邪経脈[かぜけいみゃく]に客として歯根に流滞して齦[はぐき]を腫らし濃汁[のうじゅう]を出さしめ、癒えて更に発[おこ]る。これを歯漏という」と記されています。歯ぐきが腫れて膿が出る症状として、歯槽のうろうのことが書かれています。
 唐の詩人韓愈[かんゆ]に次のような詩があります。「去年は一つの牙(奥歯)落ち、今年は一つの歯(前歯)落ちぬ。俄然として落つこと六つ七つにして、落つる勢いは殊にいまだやまず、あとに存(残れる)するものみな動揺し、尽[す]べて落ちてのちおそらく始めて止むべし」と。歯がつぎつぎと失われていくのにどうするすべもない無力さをなげいています。
 日本では、『病[やまい]の草紙[そうし]』という絵巻物に、歯槽のうろうに苦しむ男女の様子がおもしろおかしく描かれています。平安時代から鎌倉時代にかけて後鳥羽上皇[ごとばじょうこう]に仕えた土佐光長[とさのみつなが]の作と言われています。生老病死に苦悩する人々のありさまや病相が描かれていて、疾病[しっぺい]の図録として世界最古のものと言われ、国宝に指定されています。そのなかに、「歯のゆらぐ男」と題して、「おとこありけり、もとよりくちのは、みなゆるきて、すこしも、こわきものならは、かみわるにおよはす、なましひに、おち抜くることはなくて、ものくふ時にさわりてたえかたりけり」とあり、中年の男が食事をしながら、口を開けて痛む歯を女房に見せている絵が描かれています。表情豊かで、当時の庶民の生活ぶりがうかがわれます。
 もうひとつは、「口臭の女」と題し、「宮こに女ありけり、みめ、かたち、かみすかた(髪・姿)あるいかしかりければ、人さこしにつかひけり、よそに見るおとここころをつくしけれとも、いかのか(息の香)あまりにくさくてちかつきよりぬれは、はなをふさきてにけぬ。たたうちいたるにも、かたはらによる人くささにたえかたけり」との詞書[ことばがき]があり、中年の高貴な身分の女性が歯をみがいているそばで、女官[にょかん]がたもとで口をおおって臭いを防いでいます。あまりに口臭がひどいので、男に逃げられてばかりいるとの説明書きには苦笑させられます。「歯がゆらぐ」とか「口臭がする」ということは、おそらく重度の歯槽のうろうにかかっていたと思われます。
出典
磯村 寿賀人
『おもしろい歯のはなし 60話』 大月書店