歯みがきや口腔衛生思想は、仏教とともに朝鮮半島からもたらされたとお話ししました。それでは医療はといいますと、やはり朝鮮半島の百済[くだら]や新羅[しらぎ]を経由して伝えられました。414年に金武[こんむ]という医師が日本に渡来し、允恭[いんぎょう]天皇の病気を治療したと言われています。その後も高句麗[こうくり]や百済から医師の渡来が続きます。
 しかし、最初は地理的に近い朝鮮半島の国々から仏教を受け入れて、仏教文化の興隆をめざしていたわが国でしたが、仏教文化は中国で創りだされたものだとわかると、直接中国の隋[ずい]や唐[とう]に使節を派遣して先進文化の吸収に邁進[まいしん]することになりました。こうして蘇我馬子[そがのうまこ]や聖徳太子らが積極的に仏教文化をとり入れることによって、明るい色彩豊かな仏教文化が花開くようになっていきます。
 飛鳥[あすか]・白鳳[はくほう]天平[てんぴょう]時代を通じて、仏教寺院の建立が相次ぎます。エンタシスを思わす太い柱は朱色、垂木[たるき]の先端は黄色、連子[れんじ]窓は緑色、仏塔の相輪[そうりん]をはじめ金属部分は金色、堂内の壁画は極彩色[ごくさいしき]、本尊は光り輝く金銅仏[こんどうぶつ]と、それまでになかった極楽浄土[ごくらくじょうど]を思わせるあでやかな色彩あふれる世界が現出することになります。そして、天武天皇によって、唐の律令制[りつりょうせい]をとり入れた中央集権国家が形づくられてゆきます。日本の律令制は701年の大宝[たいほう]律令(律6巻、令11巻)、718年の養老[ようろう]律令(律10巻、12篇、令10巻、30篇)によって一応の完成をみることになります。
 この律令のなかの8巻、24篇に医疾令[いしつれい]があります。これは医師の養成、薬についての規定で、医事をつかさどる役所は典薬寮[くすりのつかさ]、その長官を典薬頭[くすりのかみ]といい、その下の医博士[いはかせ]という官位に学術のすぐれたものが任命され、医学教育はすべて国費でまかなわれました。修業年限は内科は7年、小児科、外科は5年、耳・目・口・歯をあわせて4年と定められていました。しかし、唐をまねた医学制度は、それほどうまくは機能しなかったようで、目立った活動は見られなくなりました。
 982年に丹波康頼[たんばのやすより]が30巻よりなる『医心方[いしんぽう]』という、当時における唯一の医学書を編集します。その中の巻5に歯科学関係の記述が見られます。康頼はその高い名声のため、朝廷に召し抱えられることになります。この丹波家は代々世襲的な医師の家系となって有名な医師を排出してゆきます。室町初期の丹波兼康は医術にすぐれ、とくに口の中の治療に長じていて、口科の専門医になりました。この口科専門医の成立はその後の医科と歯科の文科のさきがけとなるものでした。
 江戸時代に入ると歯科学は急速な発展を見て、歯科にたずさわる人々である、口中医師、口中医、牙医、歯医、歯薬師、歯医師、はいしゃ、入歯師、歯抜き、歯取りなどがあらわれることになります。そして、幕末から明治にかけての外国人歯科医師の相次ぐ来日によって、歯科医学はめざましい発展を遂げました。言うなれば、医学の進歩には白鳳・飛鳥・天平と江戸から明治にかけての2度の文明開化がそこにはあったことになるのです。
出典
磯村 寿賀人
『おもしろい歯のはなし 60話』 大月書店