地球上に生命が誕生してから、生物が生きていくためには、外界から栄養となる食べ物をとりこんで、エネルギーに変えていかなければなりませんでした。そのためにまっ先に口ができたことはお話ししました。口は、からだのもっとも前方に位置することとなったのです。つまり、運動する方向に口があれば、食べ物をとりこむのに便利、かつ有利であったわけです。口ができてから、その前方部に感覚器(鼻・目・耳など)があらわれてきました。つまり、生き物はその前方に呼吸を行う器官、後方に消化を受け持つ器官(腸管)に分化してゆきます。そして、呼吸をつかさどる前方部に水をとりこむ鰓[えら]が並び、口から入った水が、両脇にならんだ一列の孔(えら孔)から吐き出されて、そこでガス交換(えら呼吸)が行われるようになりました。
 魚類が海を捨てて陸を目指したことは、脊椎動物にとっては画期的な大事件でもありました。もっとも劇的な変化は、水のない環境に適応することでした。水呼吸から、大気を吸って行う空気呼吸への変化でした。水を吸いこむ必要がなくなったえらは、最初のえら孔が耳の穴となって残りましたが、そのほかのえら孔は閉じてゆきました。えらの骨はさまざまな骨に姿や形を変えてゆくことになります。空気呼吸をするようになった顔面部は、呼吸をしようとして頭の部分を持ち上げることによって、頸部(首)の部分を形成することとなったのです。それとともに、長く伸びつつあった首すじにそって、えらの骨はまずあご(顎)の骨へ、そして耳の中の聴覚をつかさどる小さな骨に、下あごを開閉する舌骨に、甲状腺に関係する甲状軟骨へと変化していったのです。
 それぞれの骨は人間化に向かって重要な役割をはたすのですが、舌骨は人間が会話できるようになるためのカギをにぎっていました。また、えらの筋肉は、咀嚼[そしゃく]、表情、嚥下[えんげ]、発声などの運動をつかさどる筋肉へと分化していきました。人間の胎児は母親の子宮の中で、原始の海の名残を残していて、ある時期には未だ「えら」を持っているのです。
 のどから出る手とは何のことでしょうか。そうです、それは舌です。辞書には、「のどから手が出る」という言葉の意味は、非常に欲しいと思うたとえ、とあります。海から陸へ上がった生物は、大気下での呼吸になれるのにたいへんでしたが、それとともにいかにして食べ物を得るかが、やっかいで困難な問題でした。海の中では泳ぎ回っていれば、水とともにプランクトンやえさが勝手に口の中に入ってきましたが、陸ではそうかんたんにいきません。まだ手は発達していませんから、地上を這い回って、空中をとぶ昆虫を捕まえねばなりません。そこで深刻な飢餓に直面することになりました。彼らは必死の思いで空を見上げ、顔をもたげ、口を突き出しました。すると、その口から舌が飛び出したのです。
 今もカエルやトカゲ、カメレオンなどの舌の早わざの見事さを見ることができます。
 舌は口の底の筋肉が盛り上がってできたもので、体壁から手足が突出することと同じ意味で、舌は口の中に生えた腕ともいうことができるのです。「のどから手が出る」という言葉の意味が、なるほどと合点がゆきます。
出典
磯村 寿賀人
『おもしろい歯のはなし 60話』 大月書店