唾液という字の「唾」は、つ、つば、つばき、とも読まれます。「つ」は「津」に通じ、津は船着き場や港を意味し、津の語源は人や物が集まり、たまる場所ということです。だ液も口の中にたまるので、唾(つ)と呼ばれるわけです。つばは「津唾」、つばきは「津吐き」とも書かれ、水のようなものを吐く、という意味からきているのです。「唾」という字を用いた字もけっこう多いようです。眉唾(まゆつば)、唾馬(だば)、唾手(だしゅ)、天に唾(つば)す、生唾(なまつば)を飲む、固唾(かたず)をのむ、虫唾(むしず)が走る、唾万病(つばきまんびょう)の薬、唾(つばき)で矢を矧(は)ぐ、唾をつける―等々。涎(よだれ)は口から垂れ流れるだ液で、口の中に分泌され飲み込まれるだ液とは何ら変わりがありません。これも、涎を垂らす、垂涎(すいぜん)、牛の涎―等々があります。身体の中でだ液ほどちょっとしたことで手軽に利用され、重宝されているものは見当たりません。
 @けがをした時につける、A笛などの吹口を湿らす、B紙でコヨリを作るとき指を湿らす、C野球のバットを振るときなどすべり止めに湿らす、D鉛筆書きの字や絵を指で消す、E本のページをめくる、F紙幣を数える、G切手を貼る、H鉛筆や毛筆の先をなめる、I力仕事をするときに手に唾を吐きつけ気力を鼓舞(こぶ)する、J呪いのような効果を期待してつける―などなど、無意識に唾のお世話になっていることがあるようです。
 また、「唾棄(だき)する」という言葉を残しておいたのですが、広辞苑には「つばを吐き棄てるように捨てて顧(かえり)みない、軽蔑する、さげすむこと」とあります。だ液は便利なものとして使われていますが、どうも汚いもの、不浄のものとしてうとまれています。人間の体内から分泌、排泄されるものには、汗、涙、だ液、血液、大小便などがありますが、汗、涙は歓迎されても、だ液は第3者には嫌われています。これはなぜなのでしょうか。歯科生化学の押鐘篤博士は、だ液不浄の心理は、だ液の呪力・霊力信仰と結合して、民族宗教心理学上の問題と述べておられます。その液状が粘液状で、粘着性はそれ自体無気味な感じをあたえる性質があるのだそうです。「汗や涙はどこから出ているか眼に見えないが、大きな開口部から出てくるものは不安をいだかせる、出口と入口とを兼ねている開口部では、いったん出口から出た液体が再び戻って入口から入って来る危険性がある、口の中にたまっただ液よりも、吐き捨てただ液の方がいっそう不浄とされる」、と看破(かんぱ)されています。
 一方、だ液はつまらぬもの、役に立たないもの、と思われていたので、不浄などと不当な扱いを受けてきたという弁護論があります。
 だ液は、耳下腺(じかせん)、顎下腺(がっかせん)、舌下腺(ぜっかせん)の3つの大だ液腺、口腔粘膜に散在している小だ液腺から分泌されます。生理的な作用としては、@消化作用(アミラーゼ)、A円滑作用(口の中が乾燥すると、発声がしにくい、食べものが飲み込めない、嚥下できない)、B洗浄作用(口の中を清潔にする)、C抗菌・殺菌作用、D血液凝固作用、E内分泌作用(パロチン→老化防止)、まだまだいろいろな働きがあります。口の中を清潔にし、抗菌・殺菌作用があるということは、歯にとってもとても重要です。「よだれの多い子はむし歯になりにくい」という人もいます。最近、だ液には癌を抑制する作用があること、他の病気を予見するための検体として有効なことなど、役立たずとはとんでもない、地味ではありますが重要な働きをしていることがわかってきたのです。
出典
磯村 寿賀人
『おもしろい歯のはなし 60話』 大月書店